湧虫雑記


月の光


 ただいま見事に心の中がからっぽで、何を見てもつまらなくて、どうしようもない。ちょっと遠出でもして気分転換という気持ちも起きない。どうもいけない。こんな時は人と一緒に出かけるのはますます気が向かない。鬱というのでもないと思うが、大きな意味ではかなり憂鬱なのだ。周りの人々が淡々と生きているのを見ると、凄いなあと感じる。ひょっとして、こんな歳になっていうのも何だけど、自分は生きるのに不適格なのかな、と思えてくる。細木女史によれば今年から大殺界でしかも後厄。この気分の悪さは確かに頷ける。

 埋め合わせるわけでもないのだけれど、深夜の散歩は欠かしていない。なんだか怪しい行為ではあるが、これが意外と気持ちを落ち着かせるのにいい。月などが出ていれば、じつに結構。月の光はいっさい人を刺激しようとしない。なんの変哲もない住宅地の屋根屋根の上に静かに降り積もる。シェーンベルグの「浄夜」という曲がある。一組の男女が月夜の道を静かに歩く。女が自分の犯した過ちを告白し、それを慰める男、月の光りと夜の清らかな空気によって、二人の心は次第に溶け合って固く結ばれる。その様子を交響詩で表現している。曲全編に月の光の柔らかく温かく神秘的な雰囲気が満ちる。猫一匹の姿も見えない道、寝静まる町、ジャージーにつっかけの怪しい男の頭の中にはほんのしばらくの間「浄夜」が鳴り響き、この世でもないあの世でもない宙に浮いて、なんとか自分を取り戻そうとする。

 桑名正博の歌に「月の光」がある。作詞が下田逸郎で、これがなかなかいい。巷で、特に大阪ではカラオケでも渋くヒットを続けている。こちらのほうはずっと分かりやすく、「灯りをつけるな、月の光が優しくおまえを照らしているから・・・」と始まる。街を去る男が、本当は愛していた女との別れ、「長い旅になりそうだし、さよならとはちがうし・・・」とはいうものの、二度と会うことのないさだめを静かに歌う。だれにでも起こりそうな「この世」の物語。しかし、わたしの月夜の散歩の「伴奏」にはならない。俗っぽいからというのではなく、恋の別れにしみじみとするには歳を取り過ぎてしまったからだろう。散歩はすぐに終わるし、戻ればいつものように妻が寝息を立てて熟睡している。周囲はあくまで平和なのだ。

 太陽が自力の光とすれば、月は他力の光である。陽の光は晒し、月光は包み込む。太陽が喜びの謳歌とするなら、月はともに悲しむ歌。地球からの距離そのままに、むしろ月のほうが人間に近しいようだ。ただ太陽の惜しみ無く降り注ぐ恵みは、月にはない。潮の満ち引きを演出するくらいだが、人の心の裏側を支えるような働きがある。忘れた頃に静かに西空に現れ、次第に姿を変えてなまめかしく変容し、また次第にやせ細って姿を消す。儚さといじらしさを投影することができる。こんなふうに考えると、月は「いい女」に喩えたくなる。イタリア語でも太陽(sole)は男性名詞で月(luna)は女性名詞。わたしは毎晩密かに「いい女」と束の間の逢引を楽しんでいることになる。 sunshine ならぬ、moonlight のような神秘的な女性と、ある夜散歩道で出会って、この世のものともあの世のものともつかないドラマが展開する・・・なんて妄想も起ころうもの。



岩崎 雄造